CD集1 |
第一巻
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初瀬・桜井・宇陀 〜大和朝廷の源流を辿る〜 (58分) |
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万葉集第一巻の冒頭は、五世紀後半に君臨する応神王朝最後の雄略天皇の初瀬朝倉宮の歌から始まる。応神王朝とは河内に中心を置いた王朝であり、その勢力がこの地まで及んだことを物語っているのだろうか。初瀬を旅すると、緩やかな山並みの向こうに、果てしなく大和の国原が広がり、ここから大和を支配下におさめ、その勢力圏を拡大していったありさまが見てとれる。さらに東へ行くと、神武天皇伝承地や倉椅山、その奥には宇陀の安騎野が古代への夢をかきたてる。 |
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第二巻
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飛鳥・山の辺の道 〜古代文化のふるさと〜 (59分) |
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大和平野のはずれの山間の僻地、飛鳥は平城京や平安京のような広大な平面を持つ都をイメージすると、何と鄙びたところかと思わせる。しかし、この山あいの地から古代文化は発祥した。ぐるりを取り巻く小丘陵の起伏とささやかな平野は、古代文化のふるさとである。
古代人はこの地を捨てて近江へ、そして藤原宮へとその政治の中心を移していく。廃墟と化した飛鳥への愛惜の情がうたわれる。 |
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第三巻 |
生駒・葛城・吉野 〜うるわしの山々へ〜 (57分) |
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生駒の山越えのひとつに、山頂の南に下った鞍部を越える暗峠越えがある。暗越えは今日、奈良街道といわれる道筋である。大和平野の西側に連なる生駒・葛城の連峰は、大和を温かく包む山並みであり、この山々を越えることは、大和の懐から離れることでもあった。愛する人との惜別や故郷への思いが数々の秀歌に残る。吉野はその南に連なり、大和の平野では見られないその山川の美しさは、神聖な場所として古代人の心をとらえた。 |
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第四巻 |
奈良・山城・近江路 〜都の跡を辿る旅〜 (57分) |
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飛鳥から佐保川を上り、奈良から山城、近江へとつづく道は、古代から遠く日本海につながる重要な街道であった。この沿道には、様々な見捨てられた都がある。奈良の都でさえも、一夜にして、都大路のにぎわいは田野に帰したという。
平城京から奈良坂を経て、木津川沿いに山城路を辿ると一時都が置かれた久邇京がある。さらに宇治川を渡ると逢坂山に出る。そこを越えると大湖が眼前に広がる。その湖南の大津宮の古都、そして蒲生野は近江朝廷の残照を今に留めている。 |
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第五巻
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海の回廊 〜瀬戸内海 旅のうた〜 (58分) |
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瀬戸内海は古代の文化が往来した大動脈である。古代においては、行く手を阻む陸路よりも海路はたやすい道のりであった。しかし、穏やかな瀬戸内とはいえ、自然の猛威の前には当時の木の葉のような船は力をもたない。内海でありながら、海路は常に死と背中合わせの旅だった。まして行く手の玄界灘を越え異国へと向かう遣新羅使の船旅は困難を極めた。弱小船での頼りない海の行路に人生の悲哀が重なり、胸を打ついくたの秀歌が生まれた。 |
CD集2 |
第六巻 |
南海道 〜紀伊 海と光の道〜 (58分) |
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大和の巨勢路から宇智野を経て、黒潮の紀伊へ南海道を行く。周囲を山に囲まれた大和人は、南海への憧れを声高らかにうたいあげる。信土(まつち)の山川、妹と背の山、玉津島山、若の浦、藤白のみ坂、磐代から、熊野の浦へとつづく道程に、古代人は、黒潮と陽光への賛歌と都への惜別をうたう。
また、この地は古代の王権をめぐる血なまぐさい抗争の舞台としても知られ、人と自然の織りなす歴史のドラマに思いを馳せることができる。 |
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第七巻 |
北陸道 〜北の王国 越への道〜 (58分) |
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古く越の国は、都から遠く離れた鄙の王国であって、冬の訪れとともに春まで外界から閉ざされる辺境の地である。天平十八年(七四六年)大伴家持は、妻を都に残して単身越中国守として赴任する。穏やかな大和の風土にはぐくまれて育った家持の歌の世界は、この地の過酷な自然とふれあうことで深まりをみせる。 |
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第八巻
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伊勢・東海 〜東国 異境への旅〜 (59分) |
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壬申の乱の折に伊勢で東国の兵力を背景に勝利した天武天皇の時代から、大和と伊勢は
強く結ばれていた。高見山を越え、伊勢から海路を渡り、伊良虞(いらご)の島に着くと、
その先には、尾張、美濃、遠州へとはるかな東国への道がつづいていた。そこには東歌という都人には失われた素朴な日常生活をよみ込んだ新鮮な歌の世界があった。 |
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第九巻 |
信濃・上野・下野 〜遙かなみちのくへ〜 (59分) |
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不破・鈴鹿両関以東は東国である。不破の峡谷部は、近江と美濃の間の国境であるだけでなく、畿内と東国との境界として古来より要衝の地だった。
その東方関ヶ原は壬申の乱の「東の国の御軍」を集め、大海人皇子軍の拠点となった。
海沿いの大河川や津を船でこぎ渡る東海道よりも、東国への東山道は、日程の定かな陸路として重要視されていたのだ。不破関をさらに東に行くと信濃に出る。信濃から碓氷峠を越えて上野、下野に入り、その道はさらに北上して遙かみちのくまで延びている。 |
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第十巻 |
大宰府・山陰 〜はてしなき官人の旅〜 (61分) |
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九州は「遠の朝延」といわれたように、大和朝廷にとっては大陸に向かう玄関口として重要視された。現在の大宰府市には、九州全体を治めると同時に外交の拠点ともなった「大宰府」が置かれた。また、博多には筑紫館(つくしのむろつみ)がおかれ、外国からの賓客や官吏の接待宿泊にあてられた。都との往還での官人の歌、特に六十歳の老境を過ぎて、神亀四年ごろに大宰帥として赴任した大伴旅人と筑前国守山上憶良は遠い異郷で積極的にその風土にとけ込み、「筑紫歌壇」とよばれるような文化の華をさかせた。
一方、柿本人麿は、荒涼たる石見(鳥取県)の地で妻と別れ、ほどなく謎にみちた死をとげている。 |