第一巻 |
無門関 提唱 第19則「平常心是道」 【収録】昭和30年6月 神戸・禅福寺専門道場
「至道無難唯嫌揀択」(しいどうぶなんゆいけんけんじゃく)至極の大道はむつかしいことではない。ありのままでよいのである。南泉和尚(中国唐代の禅僧)がしきりに道ということを説かれるから趙州(じょうしゅう)が南泉に尋ねた。「如何なるか是れ道」道とはいかなるものか、人間の歩く道は、釈尊の説かれた道は──。言葉は簡単だが平常心とは何か。(50分) |
第二巻 |
講演「総に成仏せしむ」 【収録】昭和41年10月 京都・東福寺
北京の臨済宗の広済寺で日中合同の大法要が営まれ、その足で古の鎮州(今日の正定)へ。臨済寺の跡を訪ねたが建物はひとつも無かった。これが臨済禅の発祥の地なのか……。日本文化の母体といわれた禅の発祥の地か……。「禅無しとは言わず、ただ是れ師無し」真実の禅文化を育てなければと強く感じた。(43分) |
第三巻 |
講演「随処に主となる」その一【収録】昭和46年5月 大阪・関電ホール
日本民族を指導してきた精神は、日本の神道と、中国の儒教と、インドの仏教の「神儒仏」の三道であった。神の清明心を父とし、仏陀の慈悲を母とし、儒教の道義を兄とし家庭的な暖かな雰囲気で日本民族を千数百年育ててきたが、大事な教えのすべてをなくしてしまったのではないか。大衆よどこへ行こうと考えているのか──。それが仏教、それが禅ではないか。(48分) |
第四巻 |
講演「随処に主となる」その二 【収録】昭和46年5月 大阪・関電ホール
刹那刹那を無心で生きていくということが「随処に主となれば立処みな真なり」ということであろう。自分の過去がどんな過去だったかを知ろうと思うならば、現在の自分を見たらわかる。将来どんな結果がでてくるのかを知ろうと思うならば今の努力を見ればわかる。今の自分の中に過去の結果がすべてあり、未来の原因がすべてである。刹那こそ永遠である。この場を力いっぱい生きていくならばどこへ行っても真実を把握することができる。(41分) |
第五巻 |
碧巌録 提唱 第6則「雲門日日好日」 【収録】昭和43年 神戸・祥福寺専門道場
済んでしまったことは水に流さねばいけない。「過去心不可得」(かこしんふかとく)あるのは今である。その今を充実して生きていくことが仏法でなければいかん。「現在心不可得、未来心不可得」であるのは現在だけであるが現在も直に過ぎてしまうので、現在にも、過去にも、未来にもとらわれず水の流れのようにカラカラと流れていくのが悟りでなくてはならない。(41分) |
第六巻 |
碧巌録 提唱 第32則「定上座問臨済」 【収録】昭和45年 神戸・祥福寺専門道場
ここに登場する定上座は臨済の弟子の中でも有力な弟子である。その定上座が臨済に尋ねた。「如何なるか是れ仏法の大意」と。人間とは誰しも完全な人はいない、欠点だらけである。「勤(ごん)を将て拙(せつ)を補う」(将勤補拙)お互いの人間的に足らんところを補っていかねばならない。これが禅家の家風である。現成公案は目前に見えている現実の世界だ。現成公案がはっきりとわかって悟りを開くことはなかなか難しいものだ。(41分) |